2012年7月



2012_07_07

レストラン 夜光杯

出張帰り。壱岐から博多経由で長崎へ。


駅で家人と落ち合い、リッチモンドホテルのレストラン「夜光杯」へ。乾杯。この店、外見とは裏腹にカジュアルに楽しめるイタリアンの店でした。


あらゆる面でコーディネイターの腕が冴え渡った県内には見かけない店。こんなハイティックデザインのインテリアですと、よそよそしく居り場のなさを感じやすくなるものなのですが、要所を意図的に崩していて居心地の良さを演出しています。
たとえばつけっ放しにしたテレビとか。食器置き場をカウンターにしているとか、お箸をデフォルトにしているとか、価格設定が普通っぽいとか。


料理の彩りもよく考え抜かれています。野菜料理がこれほど美しくいただけるものとは。過ごす時間を楽しく演出してくれます。写真はバーニャ・カウダ。アンチョビ、ニンニク、オリーブ・オイルを混ぜ合わせたディップソースを温め野菜をいただく。


中で生き生きと動く若いスタッフたちに煌々と光が当てられショーアップされていますので、カウンター席から見ていて楽しめました。運び出されていく料理をみて、「お、それ私たちにもちょうだい」とオーダーするのも楽しかったですよ。

2012_07_11

何もやってないんだな

高校時代の友人に健六というのがいる。彼は当時私より勉強ができた。悠々と経済学部に進み銀行に就職した。月日は流れ齢五十となったころ、高校時代の旧友との呑み会で彼と久しぶりに会った。彼は支店長代理になっていた。

健六 「まつをは行きつけのスナックとかないの?」
まつを「そう」
健六 「土曜にゴルフに行こうぜ」
まつを「すまん。やってない」
健六 「じゃ、麻雀は?」
まつを「もうしわけない」
健六 「ふ~ん。まつをは何もやってないんだな」

思わず笑った。
仕事とスナックとゴルフと麻雀がすべての人生。

人生というプールのターンを切ると、人は省察をはじめる。「私の人生は実り多いものだったのだろうか。そしてこれからはどうだろうか」と。

2012_07_12

退職後ひきこもり症候群

職場を退職した後、日常的に遊んでくれそうな友人は何人いますか?
「実はそれが心配で」という方もいらっしゃると思う。これは幸福に関する根本的な問い。

問:親しい友人がいるか…いない 29.6%

 (回答:60歳以上男性)
  平成23年度「高齢者の経済生活に関する意識調査結果」から
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男性10人のうち3人に友人がいない。数十年間懸命に働いてきて、その結果友人もいないという人生の悲劇的結末。

職業人に特化して生きてきて、家庭人・地域人・私人としての居場所がない人

世の多くの男性は職業人に特化して生きてきているために、家庭人・地域人・私人としての自分の居場所がない人が多い。退職後、家にずっと居て濡れ落ち葉族となりはて、料理など家庭人の基礎的スキルもできず疎まれる。
近所には通ったことのない小道が多数あって、これと同じく言葉を交わしたことのないご近所さんだらけ。
一念発起してテニスを始め近くのテニスコートに行くも新参者として扱われ、そこそこ会社での地位についていたプライドが許さない。

退職後ひきこもり

こうしてついに引きこもりになる。これを私は「退職後ひきこもり症候群」と呼ぶ。人生もったいない。

2012_07_13

幸福な人は幸福な人とネットワークをつくる


『つながり 社会的ネットワークの驚くべき力』
という書物からご紹介。
調査結果、次のことが分かった。

幸福な人は幸福な人同士、不幸な人は不幸な人同士で群れを作る

幸福な人は幸福な人同士で、不幸な人は不幸な人同士で群れを作っている。また、不幸な人は人間関係が薄い傾向がある。

直接つながっている人が幸福だと、本人も約15%幸福になる

さらに、直接つながっている人が幸福だと、本人も約15%幸福になる傾向がある。友人の友人でも幸福の効果は10%、友人の友人の友人でも6%の効果があった。つまり、幸福の効果は友人の友人の友人まで影響する。

2012_07_15
遮光カーテン、本日設置。

2012_07_16

空間・時間・人間という三つの間からの根こぎ

なぜオジさんたちは退職後ひここもり症候群になるのか。そしてなぜ子ども達の心がともすれば細く育ってしまうのか。広い視点で見たその背景と考えられることを書きます。根こぎとは、木などを根のついたまま引き抜くことです。

空間からの根こぎ

近代産業文明の進展に伴い、それまで一体であった生産と消費の場が分離し徐々に遠くなってきました。

つまり自宅でやっていた仕事が通勤形態となり、単身赴任いう形態も現れています。こうして地域への密着度は減少しました。ベッドタウンという言葉に象徴されるように、昼間の居住社会には、少なくなった自営業者と、専業主婦と、子どもたちが取り残されました。

また、団塊の世代に象徴される戦後急増した人口は、旧市街地から溢れ出てニュータウンを形成し、伝統的コミュニケーションから隔離した社会で暮らすこととなりました。

さらに産業文明に伴う都市化は、生活空間から人間社会を越えた自然への畏敬の念を希薄化させていきました。

時間からの根こぎ

産業文明の波は西洋化の波は、わが国に混濁して押し寄せてきました。西欧では産業文明は伝統的文化の基盤の上に育成されてきましたが、わが国の場合は産業文明の進展が本来別概念である西洋化と混濁され語られてきたのです。

明治、戦後、そして現在進行しつつあるグローバル化の潮流によって、伝統的な文化や慣習、そしてこれらと相まって機能していた社会規範等の根こぎが進行しました。分かりやすい例をあげると、伝統的民家がどれだけ各国の町並みに残っているか考えるといいでしょう。西洋の民家残存率の高いこと。産業文明の進展=西洋化と考えた日本での民家残存率の低いこと。

これと同じように、伝統的な文化・慣習・社会規範は「封建的」と捨てられてきたのです。バカげたことです。継承された知恵がおしげもなく捨てられたのです。

人間からの根こぎ

「私の家庭で一番話しているのは?」 そう自問してください。

答は「テレビ」ではありませんか? 家庭の中の誰よりも大声で話続けているのは、もはや人間ではありません。

前述のように近代以降、私たちは地域と歴史と人間のつながりから希薄となりました。これに代わりテレビなど巨大化したメディアが私たちに繰り返し語りかけるものとなったのです。

技術革新により登場したテレビ、パソコン、携帯電話等。これらの機器は一人遊びの道具でもあります。こうして一人遊びの道具の増加によって、核家族はさらに分断されて、今や個室文化化の様相を呈し始めました。少子化と相まって子どもたちの周辺では、いよいよ様々なつながりからの根こぎが進んでいます。

近代は、空間・時間・人間という三つの間から、各個人が根こぎされてきました。根無し草となった人間には、自己存在の不安から様々な問題も立ち起こってきています。オウム事件はその象徴的なものだったと私は捉えています。

    国家の政治もまた『環境』に他ならない

  • 散人さんのコメント
    現代の課題。
    まぁ経済活動は基本資本主義を採るとして、グローバル経済の渦中で生きざるを得ない。では今の政治的課題は何かと思考するに、外交乃至防衛では、日米安保条約を堅持するかどうか。内政的には、富の再配分の中で基調である少子高齢化の今、増大する社会保障費を今後どうするかの対立軸で推移していくだろう。他の問題は派生的なもの。

    所謂55年体制は雲散霧消して残滓をとどめない。人の幸不幸もまた「環境」に左右される。国家の政治もまた「環境」に他ならない。環境とは拠って立つ地盤であるからして国民は逃げられない。私の立場では日米安保破棄、でアジア主義。社会保障では国家管掌を漸減していく(脱社会主義)、であります。自国の政治のありようは個人の「幸不幸」の基盤になります。どうか大事な一票を投じていきましょう。

    あっ、それから原発の問題もここ当面の対立軸になります。

    「中あるいは中小ぐらいの物語」と「小さな物語」として考えてはいかがか

  • 捨老さんのコメント

    まつをさんの仰る空間・時間・人間の「根こぎ」、つまり時代推移による住環境及び情報テクノロジ-の変化にともなう生存思考の変貌に加えて、個々人の生活様式の変化拡散と疎外の問題の指摘が、まさしく散人さんの仰る「国家の政治もまた『環境』に他ならない。環境とは拠って立つ地盤であるからして国民は逃げられない」に収斂される思考の文脈であるように思われます

    これを前段に提示された、「大きな物語」「小さな物語」の考察に連動するものとすれば、これは紛れもなく「全体と個」を命題とするお話であり、題目の「少し人生を考える」も「幸福」論も抜け出すことの出来ない檻になろうかと思います。この「全体と個」の歯車の個的組み直しの眩惑が、定年前後の五~六十男の心細い人生再考察能を刺激するものと思われます。

    都市部集中と辺隔拡散、再集中と再拡散、を幾度となく繰り返しているのが、人間社会ダッチ・ロールの歴史でもありますが、しかし翻って考えれば、個々人の幸福や平和と言うものは、全体とは無縁の時空で開花しようとするささやかな「物語」でもありえます。ここにこそ「少し人生を考える」間隙が残されているような気がします(笑)

    ボクは「大きな物語」と「小さな物語」という前提を少し猶予して
    「中あるいは中小ぐらいの物語」と「小さな物語」として
    考察してみることも必要な気がします(笑)。

    「百年の孤独」・「ゴッド・ファーザー」を「中物語」のテキストとしてはどうか

  • 散人さんのコメント
    捨兄の提示される「中物語」という設定が非常に新鮮に感じます。「神と私」や「国家と個人」という大対小を少しく棚上げして、中物語を提示された。いやはや「まいった」と云うしかない。さて、ではなにが一体中物語何かと問われれば、二つの物語を提示したい。それは「族」の物語である。

    一つ目は、ガルシア・マルケスの「百年の孤独」。ホセ・アルカディオ・ブエンディアを長とする蜃気楼の村が100年で消滅するまでの物語。
    二つ目は映画「ゴッド・ファーザー」。シチリアの寒村を追われたウットー・コルネオーレがアメリカへ一人移民し、「家族を守る」と「友を信じる」を掟とし「族」の発展と滅亡の物語。
    この二つを捨兄のいう「中物語」のテキストとしたい。

    たしかに「ゴッド・ファーザー」は中物語の筆頭

  • 代治朗さんのコメント
    捨老さんの難しい言葉が、散人さんの解説で少し理解できました。ゴッドファーザーは、家族の崩壊、友への信頼崩壊がテーマ。国家や宗教や敵対組織といった大に巣食う、小(個人)どおしが利害の確執の為、中物語を作っていく。しかし、最も大事にしてきた家族が崩壊し(実の兄、姉婿さえ組織のため殺害する)、娘を殺され、号泣し、失意の死を迎える。この映画は、悲劇的な中物語の筆頭にあげてもいいですよね。

    妄想にならぬための「中くらいの物語」

  • 捨老さんのコメント
    大雑把に、イタリヤ近現代史の混乱期、ハプスブルグ家のシチリア支配もお座なりの僻地扱いで短期間に撤退し、スペインのブルボン家によるシチリア王国の擁立もサルジニアとまとめて小飼の奴隷国扱いを煮やしたガリバルディのイタリア帰属の夢も、戦国野盗集団の氾濫に等しく 疲弊のままの歴史を引きずった世界大戦。
    そんな時代背景のなかに地縁結社マフィアの血の結束は登場し、新大陸移住の国策に夢を?ぐことになるわけだが、架空都市とは言えガルシアのマコンドも似たような植民地文化の記憶が前提と考えられる。

    なぜボクが「中くらいの物語」を提案したかと言うと、上の二例が世界の渾沌の中にあったように、中物語と言えども大物語にとっては小物語に過ぎず、その小物語の中に更なる中小の物語が存在し、この小→小の段階で小の画く大像は歪曲を余儀なくされる現実を、実感として感じやすいのではなかろうかと言う思いからだ。

    個としての人は 多くの場合その生涯を、ささやかな時空=場で終始する現実を持つにも拘らず「全体と個」となると、神と個、宇宙と個のように、自らが引きずる「中ぐらいの物語」の中の更に「小さな物語」世界の個である原寸を忘却し、禅問答のように図式化し理解しようとする。あたかも猿と人を直線で結ぼうとする進化論のように。これを「妄想」と言わず何と言おう。「大きな物語」と「小さな物語」は別次元の原則を持つと理解すべきではなかろうか(笑)。

  • 「大きな物語」「小さな物語」の観念論的また図式的展開は、時として原寸としての自己と、自己世界の原寸大の成り立ちを見失いがちで、このSiteのさしあたってのテーマであるところの、「少し人生を考える」も「幸福」論も空疎なものにしてしまうのではないかと言う、老爺心が言わせたこと。ご容赦を(笑)。

  • 例えばです。「小さな物語」の最たるものは、女の一生、或は、日記帳的な物語と言えるでしょう。うち、日記帳となれば自己記述が当然のこととなりますが、この日記帳ですら自己表現という視点=夢想の介入を除外することは出来ません。読まれることを予期して書かれた日記や自分史ならなおのことです(笑)。選び取られた事象の夢想によるつなぎ合わせでしかありません。
    ましてや第三者の視点、さらには複合視点によって形成される「中~大の物語」においては大いなる夢想(イメージ)の介在は当然の事となり、ドキュメントとは創作の文脈に列するものと言うことができます。その累層拡大の上に立つ「大きな物語」を、どの視点をもって自己と直結する夢想を育みつなぎとめようと、それはいつも人間のもつ、か細い想像の糸でしかないような気がします。人は夢なしには生きてはいけないと言うことなのでしょうか(笑)。世界と個人は夢によってのみ繋がっていると言えそうです。あくまでも「例えば」ですよ(笑)

    愛もまた夢であり幻想である

  • 散人さんのコメント
    嫌いな言葉に「家族」というのがあります。まぁ基本は血縁を基にしてそう呼ぶのでしょうが。家族という言葉は実は定義が難しい。そう難しく考えんでもいいじゃないかと仰るむきもあるでしょうが、定義がないとやはり落ち着かない。

    離婚再婚の先進国アメリカは血縁でない「ステップ・ファミリー」という家族が急増している。まぁようするに「連れ子」ですな。もろ連れ子もある。この傾向は日本も増すばかり、もう「家族」の意味合いを「血縁」であるとタイトにぜず、ルーズにした方がいい。

    捨兄が仰るように「夢」が人間の関係性の「紐帯(ちゅうたい)」ならば、愛もまた夢であり幻想である。ならばその「夢つながり」の仲間を「家族」と呼んでもいいじゃないか。

    江戸の時代の「長屋」を失って久しい。あの世界には確かに「中の小」の物語が存在したようだ。落語や歌舞伎の世話物には他者に異常に介入するおせっかいな人物が多く登場するが、今もって何故か涙するのは散人だけだろうか。

    「人生」と「幸福」は解決された話を聞かないキーワード

  • 捨老さんのコメント
    ふと思えば、まつをさんが提起された「人生」と「幸福」には定義がありません。それどころか古来宗教がかかえる一大テーマであり、幾多の頭脳によって膨大な書物が著されており、凡庸な脳では一著に生涯をかけても間に合わないようなものばかりですが、どの一書によっても解決された話を聞かないキーワードで、大閑師がプリセットされた答えなどないと言われる所以でもありましょう。これに「家族」と「愛」を加えれば これはもう「夢つながり」の「長屋」組織を独裁社会の組織基盤とするカルトを群がり寄せる絶好の餌のようでもありますね(笑)。

2012_07_26

世界的琵琶奏者 田中之雄さんのインタビューをアップ


長崎インターネットラジオに、武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」等の演奏で世界的活動をされる琵琶奏者 田中之雄さんのインタビューをアップしました。岩城宏之、小澤征爾らとの共演などで活躍される第一人者。実直にお話をいただいています。お聴きください。

2012_07_29

あせもに効く温泉

雲仙の湯の里温泉


息子があせもに悩んでいた。検索。なんと慣れ親しんだ雲仙の湯の里温泉が効くらしい。お近くにお住まいの雲仙焼さんに電話して確認しても同様に間違いなしというお話。入泉料100円也。早速出向き湯治。効用は噂どうりだった。一度浸かったただけで、赤かった皮膚が目に見えて改善。すばらしい。

息子と天目茶碗はわが家の家宝


雲仙焼さんと息子の出会いの写真。誕生の記念に天目茶碗を焼いていただいた時のものだ。天目茶碗、そして息子。我が家の家宝である。お世話になりました。

お山のカフェレストラン グリーンテラス雲仙


これまで雲仙になかったテイストのお店。寄ってみた。現在の息子と家人が写っている。


料理はこんな感じ。濃厚な味が好きな方はどうぞ。

2012_07_30

長崎の美しい道

諏訪神社横の坂道……神々しい道


県内には、観光名所としてはまだ挙げられないものの、極めて美しい道があります。その道を通っただけで一日得したように感じる道です。
その筆頭に挙げるべきが、この写真の道。場所は長崎市のお諏訪さまから山手の方に上がっていくコース。道中に生える巨大な樹木を避けるように車は通ります。豊かな神木から降り注ぐ緑のシャワー豊かです。


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小浜町木津付近……詩情豊かな道


小浜町木津付近。数キロに渡って物語性の強い道が続きます。たとえば左右の削り取られた岩盤に豊かな緑が映える通りや、レンガで組まれた小さなトンネルを抜ける小道。紅葉の時期は息を飲む美しさです。映画『悪人』にも使われています。


その美しさを実感されるには下の動画をご覧ください。

この道は温泉軽便鉄道~小浜鉄道の跡を道としたものです。そのためフラットな道が続き、サイクリングには理想的な道といえます。実際私も高校時代に島原半島を一周した際はこのコースを利用しました。
ただし細い道ですので、車の運転に自信がない方は避けられたがいいでしょう。


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丸善団地の道……坂の街長崎を実感する道


長崎市丸善団地。写真のショットから500メートルに渡って一直線に下り坂が続きます。キャッチボールでミスでもした日には、ボールは延々と転がっていくわけです。遠来の客があって手短に長崎を実感していただきたいとき、車でここを下ります。たいがいカーブを曲がってこの光景が出てきたとたん「おお!」という感嘆を聞くことになります。映画『いつか読書する日』のオープニングにこの付近が使われました。


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生月の外海側を走る道……日本の果ての道




写真提供「「アウトバックで行く日本の旅」http://grand-touring-japan.travel.coocan.jp/

生月の外海側を走る道。見はるかす紺碧の海。道以外の人工物に出会ず疾走する日本の果て。トンネルを越えたとたん現れるジュラシック・パーク的光景。初めて通った時、こんな所が長崎県にあったのかと驚きました。車のCMでよく使われる道です。


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Profile まつを

生きてることを楽しもう。座右の銘は荘子の「逍遙遊」。長崎市・島原市との多拠点生活。

「よくこんな事をする時間がありますね」とおたずねになる方がいらっしゃいます。こう考えていただければ幸いです。パチンコ好きは「今日は疲れたから、パチンコはやめ」とは思わないもの。寸暇を惜しんでパチンコ玉を回します。テレビ好きも、疲れているときこそテレビをつけるもの。ここにアップしたものは、私が疲れたときテレビのスイッチを押すように作っていったコンテンツです。