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2012年3月



2012_03_15

海流に乗ってやって来た文化

古代、南方からも人が渡ってきてたはず

地球上の海流はこのように動いているのですね。地図上で一般に示されているより、ずいぶんと渦巻いていることが分かります。日本付近の海流の盛んなこと(1分15秒付近)。改めて古代、南方からも人が渡ってくるはずだと思います。太平洋側の黒潮と日本海側の対馬海流の流れの格差も意外でした。提供はNASAジェット推進研究所。

和服≒呉服のいわれ

  • 大閑道人さんのコメント
    この「流れ」から推理したのが、和服≒呉服のいわれ。和服、というけど、「和服屋」さんはない、購入するのは「呉服屋」さんから。元寇の二回目も、侵略よりも漢民族の難民が亡命してきた、という説さえ。古代に限らず、ベトナム戦争当時だって、海流に乗って避難してきました。

    二回目の元寇を漢民族の難民亡命説は、二十年ほどまでの西日本新聞の記事によります。九州大学の助教授が発表した、ということでした(仮説ですよ、あくまでも)。
    第一回の元寇は、モンゴルは中国全土を抑えていません。でも、10万の軍勢で北部九州に襲来した。で、台風で壊滅。約2千人が中国へ逃げ帰った。だと。
    第二回目は、中国全土を抑えているモンゴルが、北と南(=江南軍)と合流して、再度北部九州に襲来、で、前回と同じく台風で壊滅。ところが、総計20万の軍隊で、中国へ戻ったのは、ゼロ、だそうで……。しかも、二回目の襲来には、牛豚などの家畜や、鍋釜などの家庭用品というか、そういうものまで船に積んでいた。この件に関しては、九州上陸ただちに植民地化、という意図だった、という通説に対して、モンゴル支配から逃れて難民になって九州までたどり着いたのだから、そもそも、中国本土に持っていた財産(家畜や家財道具)も持ってきたわけだし、難民として逃げてきたのだから、仮に台風に遭っても、中国本土へ逃げるつもりはないわけで、そういう背景だとすれば、「ゼロ」というのも当然だ、と。まぁ、そういう趣旨でした。
    しかし、この仮説、西日本新聞で読んだ以上のことは、その後、なんの展開もありませんから、多分、黙殺、または、拒否されたことでしょう。でも、このアイディアはそのまま「明→清」(=「漢民族→女真族」)を連想させ、長崎の「三福寺」は、中国・福建省からやってきた難民の居留地、と勝手に断定した次第です。

    2012_03_16

    古事記・日本書紀・万葉集を書いたのは、白村江の戦いで日本に亡命してきた百済人?

    古代、日本語を漢字の似た音で当てて書いていた

    夜露死苦。こんなふうに暴走族は「ヨロシク」と言う言葉を漢字に当てて服に刺繍したりしますよね。万葉の時代も同じようなことが行われていたことが知られています。まだカタカナも、ひらがなもない時代、日本語を漢字の似た音で当てて書いていました。

    でも私たちが音に出して読んでも、分からない


    ↑これがこれが万葉集の一部(国宝「西本願寺本万葉集」より)。でも、これって私たちが音に出して読んでも、何がなんだか分かりませんよね。耳で聴いた日本語に、漢字を暴走族よろしく当てはめたはずの万葉集が、読めないっておかしいと思いませんか。

    大陸の人たちに、土地の言葉で万葉集を読んでもらうと分かる

    それに答える本が『白村江敗戦と上代特殊仮名遣い―「日本」を生んだ白村江敗戦 その言語学的証拠』。藤井游惟という研究者が書かれています。氏は、大陸の様々な地方の人たちに土地の言葉で、万葉集を読んでもらっています。

    それが次の動画。これは前述の本に付いているCDを加工したもののようですが、朝鮮語で読んだ万葉集の発音は、いわゆる私たちが慣れ親しんだ万葉集の音のように聞こえ、衝撃を受けます。

    この動画は二つの実験から構成されています。

    「日本」という字を福建省方言や客家語で発音すると「ニッポン」

    一つ目の実験が「日本」という字を各地の人に発音してもらうというもの。北京語では「リーベン」、成都方言では「ズーベン」、古くからの国際貿易港の抗州方言や上海方言などでは「ザパン」(Japanのルーツ?)、福建省方言や客家語では「ニッポン」。そもそも我が国の「漢音」は、奈良時代から平安時代初期にかけての入唐留学生が当時の首都で書き取ってきたもの。ところがその後、北方異民族の浸入によって首都に住んでいた多く人々は南方の福建などに移り住み、当時の言葉がここに残っていると筆者は指摘しています。
    朝鮮語・韓国語では「イルボン」。これは朝鮮半島に近い山東半島・遼島半島の方言に由来するもので、楽浪郡に住んでいた中国人の言葉がその原型との指摘。

    実験その2が、中国地方言音・朝鮮漢字音による「万葉集の歌」の発音実験です。
    なお著者は、日本語のルーツはアルタイ語系説に立っているのではなく、南方系縄文人語起源説に立ってらっしゃるとのことですので誤解なきよう。

    「百済」はなぜ「くだら」と読むのか

  • 大閑道人さんのコメント
    「百済」これを、普通「くだら」と読む(発音する)が、どうしてこれが「くだら」となるのだろう?? 「大和」……これだって、どうしても「やまと」とは読めない。大和を「やまと」と読むのは、「大」だけでもない「和」だけでもない、「大和」となったときにのみ「やまと」と読む。漢和辞典には、「大」にしろ「和」にしろ、「やま」もしくは「や」とか、「と」もしくは「まと」という読みは示していない。「大和」という漢字熟語に、倭人が勝手に「やまと」の読みを与えた、というべきでしょう。
    同様に、「百済」の文字熟語を「くだら」と読み慣わしていた連中が居た、ということじゃないでしょうかね。「大国」を朝鮮語で読むと、くん・なら。百済人が、自分たちのことを「くん・なら」=「大国」と自称していた。よって、百済が「くだら」と読まれるようになった……という、推理。
    ※ 大和。出典は、易経でしょう。五行が極めて良好に循環している様を「大和」という、そうです。

    韓国は日本の古典を朝鮮語読みまたは解釈などする研究者に国家が報奨金を出す

  • 捨老さんのコメント
    このビデオはご本人(藤井游惟さん)も「余興」と言明されているのですから、余興にマジメ面で批評がましいこともおかしいのですが。まず結論的に言えることは、韓国は日本の古典を朝鮮語読みまたは解釈などする研究者に国家が報奨金を出し、国立大教授すら大いに参加して、つい最近までこの手の本を、特に日本で多数出版した経緯があったことは以前にも申しました通りで、藤井游惟さんの話(ビデオ)もその域を出るものではありません。
    けっして新しくはないこの手の話で見逃さず充分に聞き耳を立てるべきは(笑)、詐弁(トリック)と言ってもよいほどのレトリックでしょう。このサイトにお集まりの方々には 釈迦に説法と言うところでしょうが。

    まずこの初歩的なビデオは 音声学 社会言語学などと仰々しい語り口ですが、日本語の語源説を語っているのではなく、切離して考えなければなりません。

    さらに注意すべきは、ここでは日本の万葉(日本語)の文字を、蘇州 帯方 朝鮮の発音で読んでいるのであって、その逆ではありません。つまり彼らの自国語では意味をなさない文を読んでいるのです。そう読めるような漢字を多用して記紀や万葉は編纂されたのですから、当然のように日本語に似て聴こえるはずなのです。単純な逆論のレトリックでしかありません。その重要な担い手が百済人に限らず帰化人だったことは、日本の国語や歴史に携わる人なら普通にだれもが知っているところです。「日本」の表記はもともと「ひのもと」と言う和語から創出されたのであり、ニホン ニッポンはいわば逆輸入的流行の俗語だったわけです。

    にもかかわらず著者は、百済語と現朝鮮語が同一であったことを括弧つきながら前提にした上で、結局は「多数」という表現で「朝鮮語」の発音に重点を置いて強調しているようです。しかし百済や朝鮮の古代語や発音に関する文献も証拠も一切存在しませんし、それどころか日韓合併の近代史に到るまで朝鮮は漢吏文字を国語として成立させていたのであり、中国があずかり知らぬ時代も、朝鮮は自らを帯方郡下の漢中国の属国として自負する歴史を有しており、それは蘇州 帯方の発音が 朝鮮の発音に近いことの理由にこそなるもので、かえって朝鮮語が中国語発音を語根に生育したことの証明にしかなりません。これを現代では朝鮮・韓国の「慕華思想」と呼びますが、それまで文字通り卑人などの言葉として卑下し排除していたハングルを国民教育に公用したのは日本の政策だったことも 既述したところです。

    著者は「記紀万葉百済(朝鮮)帰化人記述説」を唱えていない としながらも、朝鮮古典とする「東國正韻」を参考にしたと言う4・5・6章を読ませたいらしいですが、タダでうまい宣伝です(笑)。ボク自身は既に興味消失。期待できません。申し訳ない。正論を言いたいのであれば もっと素直に朝鮮語の古語をこそ探求すべきでありましょう。

    「東國正韻」の1447年編纂を誇張されているようですが、近代以降ほぼ現代に編纂されたものでそれ自体が大いに信憑性に問題があります。先にこのBarで明治の東北を旅したイザベラ・バードの話題も上がりましたが、彼女の「朝鮮旅行」の英語版そのものですら、すっかり改竄して韓国は世界に出版しており、日本語版の英語翻訳ものやNYで購入する英語版も充分に気を付けなければなりません
    竹島問題も含んで歴史に限らず文化や教育そもものを政略的にとらえるお国柄のようです。

    ハングルには21の母韻があると言われます。上著述者の方法をとれば世界の言葉がハングルで読めることになりましょう。日本人はカタカナで英語を読んだからといって、それを原発音だなどと主張しません。細かく言えば長い話になりますので はなはだ簡単ではありますがこのへんでご勘弁を(笑)。

    2012_03_17

    邪馬台国は奈良県にあった?

    卑弥呼の墓は箸墓古墳

    『文藝春秋3月号』に掲載された矢澤高太郎氏の説を紹介します。
    近年、卑弥呼の墓は奈良県桜井市箸墓古墳とするのが有力である。


    その理由は次のとおり。第一に『日本書紀』には箸墓古墳に倭迹迹日百襲姫が埋葬されていると記されていること。第二に1995年に箸墓古墳の周辺から卑弥呼が死んだ時期に近い3世紀後半の「布留0式」の土器が発掘されたこと。第三に2009年に箸墓古墳の北に広がる纒向遺跡から3世紀前半のものとみられる大型建物跡が発掘されたこと。

    邪馬台国が初期大和政権に発展した

    このことから、邪馬台国が初期大和政権に発展したと考えられる。これらの主張には卑弥呼こそ大和政権の初代大王だという主張がある。

    しかし矢澤氏としては、内乱をおさめるために立てられた卑弥呼台与(卑弥呼の世継)の時代には巨大な箸墓古墳は築けなかっただろうから、「男弟」(その次)が崇神天皇として葬られた古墳だろうと考える。また卑弥呼が操ったという鬼道とは道教であろうとする。
    この説などへの反論はたとえばこちら。私はこのあたりについては見識が足りません。どなたかご指導をお願いします。

    同意しかねる

  • 捨老さんのコメント

      魏志には卑弥呼の墓は「塚」と表現。前方後円墳は塚ではない

      安本美典氏は野呂邦暢さんの死後 九州の季刊誌「邪馬台国」の主宰をしている人だが、古代史は素人の統計主義者のようで発想はほとんど自らのものではなく、統計もかなり偏りを見せることが多く  《古田武彦+和田喜八郎「東日流外三郡誌」》の弾劾で俄かに話題の人となったが、これもボクの故友人 松田弘洲の調査研究を横取りするように発表した人で、個人的にはあまり好ましく思っておりません(笑)。
      箸墓古墳の卑弥呼の墓説に関して端的に言えば、魏志には卑弥呼の墓は「塚」と表現されており「墳」とは表現されておらず、魏書における「塚・墳」の表記は明確に規模の違いを表すもので、まして前方後円墳のような特異なものであれば誤記載と言うことも考えにくく、ボクには別の理由もあって同意しかねるもので、否定論も多々あり例によってメディアの先走りの感があります。

      卑弥呼の在位は長くて10年そこそこ

      よくある誤解を指摘するとすれば、邪馬台国が営々と長きに亘って歴史を構築したかのようなイメージを前提とした 百家百説の多いことに驚きます。少なくとも卑弥呼の在位の間 長くて10年そこそこのまことに幻のような国であった可能性が忘れられがちなようです。短命な宗主国であったのならば、並立した国々に比べて一体どれほどの文化集中が起りえたのか容易に結論づけられるはずもなく、どれほどの考古学的特徴を示しうるのか問い直されなければならないと思うのです。

      武器の出土量をもって都市とするのは、武器庫を皇宮跡というのと同じ

      ましてや伊勢や比叡山またヴァチカンやメッカを例にとるまでもなく、宗教的な主国「本山」が最大の文化集中都市であることはなく 例え祭儀用とは言え 剣や矛戈という武器の出土量をもって《邪馬台国=筑前中域》とする あたかも北海道の自衛隊駐屯地の武器庫を 後世皇宮跡とでも呼ぶかのような結論を、ボクは僻見と呼びたいのです(汗)。

      卑弥呼の墓と呼ぶべき物は発見されていない

      卑弥呼も、日巫女(ひみこ)、日御子(ひみこ)、姫子(ひめこ)などとする説も、空想と呼べるほど夢もない語呂合せで終始する者がほとんどです。ちなみにボクは、卑弥呼はヒミカと読むことにしています(笑)。
      たとえば、放射性炭素(C14)年代法による箸墓古墳の築年が正確なものであったとしても、卑弥呼の墓と呼ぶべき何物も発見されておらず、魏志には卑弥呼の後継者を廻って、当時一時期に千人を超える死者を出すほどの紛争があったことが語られており、その中には墳墓にふさわしい人物が何人も含まれていたはずであり、その一事をとっても卑弥呼の墓とするには早計も甚だしいと思えます。

      魏志では「邪馬壹国」とされ、後漢書では「邪馬臺国」とされている

      魏志は「邪馬壹国」とし後漢書では「邪馬臺国」とされます。二表現は伝承された事実としてどちらも排除されるべきではなく、「壹」と「臺」のいずれか一方を不可とすれば恣意的な理論に陥らざるを得ません。双方を可とする論証がなされれば上々なのですが、何故そのように呼ばれ表記されなければならなかったかと言う、古代倭人の思考方と整合性ある理論が必要となります。そんな風な著述は今のところ一つの本しか知りません。『神言水蛭子伝説』だったか『水蛭子の舟』のどっちかだったと思います(笑)。
      ただしこの本は邪馬台国や卑弥呼探求の本ではありません。

    2012_03_20

    黒田征太郎さんとご一緒させていただきました


    場所はサイバー。黒田さんはその作品のとおり豪快な方でした。次々に飛び出す時代の潮流に関わる話でおいしいお酒。長崎のデザイン界の重鎮 で、チャーミングな魅力的にあれた山崎加代子さんとお話できたのも楽しかったですね。

    2012_03_21

    ケンちゃん結婚

    長崎インターネットラジオのオフ司会などで活躍してくれるケンちゃんが結婚。おめでとう。私も祝辞を述べさせていただきました。


    松尾薫さんが一曲プレゼント。岡野雄一さんも曲のプレゼントありがとうございました。お祝いに駆けつけたネット仲間のギャングス↓。


    2012_03_22

    DJ&作曲 irishさん のインタビューをアップしました


    今回のゲストはDJ&作曲 irishさん。五島在住。ライフワークとしての音楽活動。

    2012_03_23

    世界が君の気分で終わっちゃ迷惑


    エヴァンゲリオンの主人公シンジよろしく、自分の気分次第で世界なんか終わればいいとほざくは青二才の甘え。そう、青二才は気分次第で、軽々に「世界など終わっちまえばいい」とほざきます。自分一人のために他者も皆死ねと? 窓を開けてごらんなさい。外には多くの家庭の灯があります。肥大化した自己意識はかくも醜悪なもの。ファシストと未熟者は近接しています。

    エヴァンゲリオンは、診療内科の世界では知られた森田療法の視点から見ますと、お笑い草なことを延々とやっていた作品です。
    「どうでもいいことにこだわるな。大事なことは、日々建設的な行動をすることだ。口だけでなく、態度でも示せ」 これが森田療法の考え方です。シンジに託して作者は精神世界を求道的に描いたつもりのようですが、どっこい青臭いオタクの脆弱たる精神を露呈した醜態。肥大化した自意識は困ったものです。外へ。

    2012_03_29

    長崎にある万里の長城

    「長崎県内にも万里の長城らしきものがあるよ」と話しても、容易に理解してもらえないことが重なりましたので写真をアップ。こんなところが県内にはあるのです。場所は吾妻。


    2012_03_30

    シュールな笑い 笑い飯の「鳥人」

    先日の我が家の一場面。
    息子「一番笑ったのはどんな時?」
    私「うーん、この頃でいい?」と言いつつ頭に浮かんだのは、笑い飯の「鳥人」。
    https://www.youtube.com/watch?v=SUuxsoFAsio&t=4s
    爆笑しました。近年あんなに笑ったのは他に記憶がありません。マックス=エルンストの『雨後のヨーロッパ』を想起させるシュールさと、笑いの見事な融合。ツボにはまった。漫才史に残る名作だと思います。


    部分アップ


     


     


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    Profile まつを

    生きてることを楽しもう。座右の銘は荘子の「逍遙遊」。長崎市・島原市との多拠点生活。

    「よくこんな事をする時間がありますね」とおたずねになる方がいらっしゃいます。こう考えていただければ幸いです。パチンコ好きは「今日は疲れたから、パチンコはやめ」とは思わないもの。寸暇を惜しんでパチンコ玉を回します。テレビ好きも、疲れているときこそテレビをつけるもの。ここにアップしたものは、私が疲れたときテレビのスイッチを押すように作っていったコンテンツです。